Action Rule
2005.11.19 23:31 JST - DIARY
高校の同期と話をしているときに、ひょんなことからお金の話になった。「お金の話をできる人ってあまりいないんだよね」と後から言われてみて、確かにそんなものか、と気づかされるあたり疎いんだけれども、お金の話と価値観や生活感覚の話というのは切っても切り離せないものだ、というのは、僕らの年代だって同じことだ。いや、一番おっかなびっくり考えなければならないことかもしれないですね。嫌らしい話ではあるんだけれども。
彼に聞かれたのは「ケータイだとか、Macだとか、カバンだとか、時計だとか、クルマに乗るだとか、オフィスを借りるだとか、スターバックスでコーヒーを飲むだとか、どういうつもりでお金を使っているの?」ということ。別に「使いすぎである」というおしかりを受けているわけではないし、端から見ていても「そんなに使いすぎている訳ではないと思う」とは言われたけれど、そもそもお金の使い方って何なのだ? という話だった。
そんなことあまり考えたこともなかったので、自分の胸に手を当てて(最近よくやります)考えてみると、僕の人生がいかに投資的であるかということが分かってきた。別に必要最低限の消費をしていようが、ちょっと趣味に使っていようが、どちらにしても使ったら使いっぱなしにはしたくない、というつもりでお金を使っていることに気づいたのだ。今お金を使った分、将来何らかのカタチで生かそう。たぶんこれはお金だけじゃなくて時間も同じことだと思います。
例えばケータイについて。先日DoCoMoのケータイの明細を見て、「8年目になりました」と書いてあった。ケータイが好きになってからもう8年立つのか。今までDoCoMoにいくら払ったのだろう、機種変更は何回したのだろう。使ったお金を計算してみると、目を覆いたくなるくらいになっている。けれども、いまそのケータイの研究をしたり、blogを書いたりして、その投資がある程度生き始めている時期でもある。25歳にして8年の伏線を成就させる経験をする、というのも珍しいかもしれないですね。でも、大まじめに、「将来何らかのカタチで生かそう。」というマインドでお金を使ってきたことも確かだった。
そこで、時間だとかお金だとか、あるいはそれらによって得られる経験というのは、将来への投資と考えてほぼ間違いないだろうと悟った。「若いうちの苦労は買ってでもしろ」だとか「楽は苦の種 苦は楽の種」だとか「時は金なり」だとか、そういう類のことわざについて、一気に理解したような感覚になった。親や小学校以来の先生方にいろいろなことを言われてきて、別に反抗もしなかったけれど、ちゃんと理解もしていなかった。そういうことが、リアルに実感できたわけだ。
「自分へのご褒美」という言い方でお金を使うパターンがある。とても気持ちが良いし、僕がお金を使うほとんどの場合はこれに当たると思う。また「自分への投資」という言い方で、習い事をしたり、自分磨きをしたりする人もいる。じゃあ、それ以外に使っているお金というのは、いったい何のために使っているのだろうか。もちろんいろいろな固定費やしがらみの中から出てくる出費もあるかもしれない。しかしお金を使うこと全てについて、「自分への投資」ととらえてみてはどうだろう?
そうすると、お金に対して、非常にシンプルに考えられるようになるし、価値判断の基準が自分に集約されるというのも、僕はメリットだと思う。ライフステージが代わったら、その判断基準も変わってくる可能性がある。ただ、最初に書いた「今お金を使った分、将来何らかのカタチで生かそう。」という考え方は、変えなくても良いんじゃないか。
明日玉有がテレビに出るということもあって、なんだか高校時代、特に高校3年生の記憶にフォーカスが当たっているのがここ数日なんだけれど、高校3年の当時は「ネタとしてオイシイ選択をする」なんてことを言っていた記憶がある。それが6年で、上のようなアイディアに昇華できたのだとすれば、まずまずなんじゃないかと思った。若いから、あらゆることについて経験がなくて、分からないことしかない状態が、依然として続いているんだけれどもね。
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松 村 太 郎