TAROSITE.NET > > > > 「ワカモノの文字盤」たるケータイ

「ワカモノの文字盤」たるケータイ

2006.09.28 11:03 JST - - - ()

 僕は大学生の頃、ものすごい勢いでコンピュータのフォントを集めていた。日本語のフォントはお金がかかるモノがほとんどで、ソフトウエアにバンドルされてくるモノ以外持っていなかったけれど、いろいろなフリーの欧文フォントを見つけてはインストールしておき、ここぞとばかりに雰囲気に合わせて使っていたのを覚えている。

 ケータイは意外なほどに文字とのつきあいが深い。まず使い始めるときに機能の設定ところから、文字がなければやりようがない。ディスプレイに表示された文字を見ながら、時刻設定、基本的な動作設定をしてから使い始める。使い始めてからも電話帳、送受信のメール、ケータイ向けウェブサイトなど、ケータイのディスプレイの文字ばかり見ている。

 腕時計を持っていないケータイ世代は、しょっちゅうケータイのディスプレイを眺めているが、多くは時計で時間を見ているのである(メールの有無も同時に見ることになるけれど)。もちろんこのときにも、デジタルやアナログの形式の時計がケータイのディスプレイの待ち受けに表示されている。「文字盤」というとアナログ時計の盤面を思い浮かべるが、現代の文字盤はケータイのディスプレイのことを差すのだろう。


明朝体の役割

 先日、タイポグラファーでJfonts協議会理事長の長村玄さんの講演をうかがう機会があった。文字に関する様々なお話を伺うことが出来たが、聴いて驚いたのは明朝体には本来、画数や書き順の情報が含まれているものだ、と言うことだった。明朝体を詳しく見ると、起筆部や止めの墨だまり、払いなど、確かに書き順がわかる用になっている。明朝体は機能的なフォントだったのだ。長村さんの言葉を借りれば「文化伝承を意図を鮮明にした明朝体」という姿が浮かび上がる。

 長村さんによると、日本の漢字教育においてこの明朝体を使っていくことで、構造や属性、書き順や画数を学べるようにしているのだという。例えば、表題に独特のフォントが使われている朝日新聞、小学生向けの姉妹紙である「朝日小学生新聞」には、独特のフォントではなく明朝体を使っている。これも明朝体が持つ機能を見越した配慮だと、長村さんは指摘している。しかし果たして明朝体に込められている思いは、正しく伝わっているのだろうか。

 「世の中で明朝体以外の文字があまりにもあふれすぎている。また同じような明朝体の雰囲気を出していても、デザイン性に富んだこれまでとは違う“明朝体風フォント”にも人気が集まっている。このような状況に対応しない学校教育は、果たして正しいのか?」と、長村さんは疑問を呈している。確かに、日本人と文字とのつきあい、日本人への文字教育について、何らかの新たな局面が必要なのかもしれない。

 さて「ワカモノの文字盤」たるケータイでのフォントは、いったいどうなっているだろうか?


ケータイの上での文字環境

SO902i #23 一部の端末では明朝体が使えるようになったものの、多くはゴシック体をベースにしたフォントで表示される。特に気にしたことはなかったが、それにならされている自分に気づいた。今僕がメインに使っているケータイはSO902i。メニュー画面こそ独自のアンチエイリアスがかかったキレイなフォントが表示されるものの、そのほかのメニューやメールなどは、文字サイズを「中」にしていると、ちょっと太さ(2ピクセルくらいだろうか)があるのゴシック体で文字が表現される。細かい文字の部分は2ピクセルの太さを1ピクセルにするなどして、極力文字をつぶさない配慮がなされている。

 文字サイズを「大」にすると、さらに太く大きな文字になるが、「小」にしても「中」と同じ太さで、文字の大きさが変化する形だ。いずれにしても、書き順や文字の構造などといった文字に対する造詣を感じることは出来ないが、見やすいし、日常見慣れる文字として問題は見あたらない。おそらくSO902iに限らず、そのほかのケータイでも特に問題ない、という感覚ではないだろうか。


F902i #11 前から述べているような、大きな役割を持っている明朝体の表示に搭載されている端末はどれだけあるだろうか。僕が知っている限りでは、D902i、F902iで明朝体フォントをチョイスできるようになっている。これを設定すると、ケータイのメニュー画面やメール表示に、このリョウミンが使われるようになる。英数、ひらがな、漢字、記号などが明朝体になるが、さすがに絵文字は明朝体にはならないようだ。そこまで凝っていたらまた面白いですね。

 長村さんにケータイで表示されるフォントについて質問してみると、こんな答えが返ってきた。「ビット数の関係から、簡略化が余儀なくされる。例えば、我々が普段使う文字の中には画数が30画にもなる漢字がある。これをどのようにケータイのディスプレイで表現するか? 字体や字形、フォントの問題よりも大きなくくりで考える必要があり、どんなメディアやどんなキャリアを使っても、ある程度情報が同じレベルで伝わる加減を決める必要があるのではないか」(長村さん)

 ケータイのディスプレイの高精細化はこれからもすすんでいくモノと考えられる。現在多くの端末が320×240のQVGAか、ワイドQVGAと呼ばれる横長(縦長)ディスプレイを搭載しているが、VGA化、さらに高精細なHD対応のケータイ向けディスプレイが搭載されるようになるのも時間の問題だろう。当然高精細になればフォントの表現も細かくすることが出来るようになる。また現在の地上波デジタルテレビの字幕のように、フォント側が高精細に対応せずディザが出てしまっては台無しだ。さらに高精細になれば読みやすいか、と言われればそうではない。

 これからケータイで扱われるフォントについて、技術や端末の進化の上では高精細化によって、文化の継承という役割を背負う明朝体を使うことが出来るようになるかもしれない。リッチなディスプレイ環境によって表現力が増すことは疑う点ではない一方で、長村さんの指摘のように、ある程度情報が伝わる要素に注目した視点も必要ではないか。

 さらに言えば「ワカモノの文字盤」としての独自性と日本の文字環境との関係性を追求することが出来れば、これもまたエキサイティングではないだろうか。


ワカモノの文字盤に日本語文化はあるか?

 インターネットコム株式会社と株式会社クロス・マーケティングの「時計に関する調査」の記事によると、53.7%がケータイで時間を確認すると答えたそうだ。さらに「ケータイの時間は自動補正され、腕時計をわざと5分進める」という話まで聞くと、複雑な心境になってくる。1980年生まれの僕もギリギリで、腕時計はオトナの印という感覚を持っていたからだ。

 文字盤の意味が少し変わってきているけれど、ワカモノの文字盤の上で表示される文字について、多くはゴシック体での表示だった。以前のエピソードで僕はフォントを集めるのが好きだったと書いたが、ケータイで表示されるフォントが変えられると知ったのは、確かN503iの頃だっただろうか(ずいぶん昔の話ですね)。普通の細字のフォント、太字のフォントに加えて、「手書き風フォント」を選ぶことが出来た。

 設定でこの「手書き風フォント」を選ぶと、ちょうど以前流行していた「丸文字」のようなフォントでメニューやメールが表示されるようになる。送るメールも届くメールも丸文字に変更されていたので、メールがかわいく感じられるようになる、と愛用している人はいっていた。残念ながら僕は読みにくくなったという印象を受けるだけで、あまり理解できなかった。ただこのあたりの話は、僕がフォントを集めていたり、Macを使っている理由に近い。

 僕がMacに切り替えたのは2001年だった。iTunesとiPodをいち早く使ってみたいということもあったけれど、MacOS 9、Mac OS Xともに、文字がとてもキレイに表示されてると思ったからだった。文字ばかりのウェブを見たり、テキストエディタで文章を書く作業が多いと、どうしてもキレイだと思う文字表示の環境で作業がしたくなるモノだ。フォントを集めていたのは、伝える情報にちょうど良いフォントで表示させたいと思っていたからだ。

 文字に関する相反する要求をしているようにも見えてくるが、メールにおいてはパソコンでもケータイでも、前者の「どんな文字で見たいか」と言う点のみが実現されている気がする。つまり送り手は文字を完全には指定できない。もちろんパソコンでのHTMLメールでは指定できるが、相手がフォントを持っていなければ思い通りに表示されない。ケータイのHTMLメールであるデコメール(DoCoMo)、デコレーションメール(au)では文字サイズや色は再現できるが、フォントまでは再現されない。

 現在ケータイのHTMLメール機能は画像を中心にした装飾に興味が向いているが、メッセージを言葉で伝えるのは文字なので、フォントを変更してそれが相手の画面にも再現されるような拡張は求められるのではないだろうか。あるいは単純に、端末に好みのフォントで見出しの文字画像が生成できる機能を組み合わせるだけでも変わるかもしれない。ケータイのHTMLメールはとても興味があるが、ちょっとフォントそのものの話からそれてきたので、別の機会に回したいと思う。

 さてタイポグラファー、Jfonts協議会理事長の長村玄さんのお話を最後にもう1つ引用したいと思う。長村さんは、夏目漱石や森鴎外の小説の中で、漢字に濁点を打ってしまうような表現方法が平然と行われていたことを指摘していた。例えば「ほおづえ」を漢字で「頬杖゛」と音が濁る漢字に濁点を打って表現したり、「たびたび」を「度々゛」と繰り返しの記号にも濁点を打つことが行われていた。もちろん現在の漢字の使い方からすると外れているが、どことなく漢字が持つ音の表情を反映しているようで風情があるとでも言うべきか。

 僕はこの話を聞いたときに、ケータイの中で扱われている文字には、このような自由さが存在しているのではないか、と思った。ギャル文字のように記号を組み合わせてひらがなを表現する手法や、いわゆる機種依存文字である「メートル」「キロ」といった文字を文章の中で使ったりするのは、言葉遊びならぬ文字遊びのようなものだ。また絵文字を句読点の代わり使ってニュアンスをコントロールするのは、漱石がやった漢字に濁点を打つ風情に通じるし、絵文字を2つ連ねて別の意味を作り出すこともまた、漢字の成り立ちを理解しているからこその文字合わせの手法に見えてくる。

 ワカモノの国語力云々という話がケータイの普及と合わせて語られることがあり、その多くが懸念を示す内容のように見受けられる。しかしワカモノは、彼らの文字盤たるケータイのディスプレイの中で、彼らなりの日本語表現をしている様子が見受けられる。僕は言葉は生き物だと思っているので、文字盤の中で起きていることはポジティブに受け止めるべきだと思う。

 その上で、軌道修正するのか、さらにワカモノの文字盤の流儀を尊重してのばすのかを議論した上で、フォントや表現方法、メール環境などでアシストしてあげると、日本語の新しい未来が切り開かれるのではないか、と考えている。

TRACKBACK

このエントリーのトラックバックURL:
http://netnomad.org/mt-tb.cgi/7294

COMMENT

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

TAG

">

TRACKBACK
COMMENT