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Social Capital in Nature - 自然に善悪はない
by TARO MATSUMURA @taromatsumura 2007.10.19 12:48
最近、ソーシャル・キャピタルに関する勉強会を開催している。今朝は、渋澤健さんのオフィスにお邪魔して、弁護士でNPO日本プロデュースの森田さん、NRIの永井さん、中央区議の田中さん、コーディネーターのありえる鈴木さんとディスカッションをした。ここ最近の議論では、ソーシャル・キャピタルのとらえ方に関する意見交換と、それを感じられるモノについてざっくばらんに会話をしている。
今日の議論では、新潟の『大地の芸術祭・越後妻有アートトリエンナーレ』の話題から、新潟の自然のすばらしさとアートによる街作り、という話題が森田さんから提供され、これはソーシャル・キャピタルを豊にするプロジェクトである、と言う議論になった。その関連で、自然とソーシャル・キャピタルの関連について議論が進んだ。
昨晩、フジテレビの深夜アニメ枠「ノイタミナ」で『もやしもん』というアニメをMEDIA SKINのワンセグで見てしまった。このアニメはなかなか面白くて、もやし屋の息子で菌類が見える男の子と造り酒屋の息子が農大に入って、細菌学の研究室に入って、と言うストーリーなんだけれど、この細菌が見える、と言うコンテクストが面白いのだ。
昨日は日本酒をダメにしてしまう火落(ひおち)が登場していた。もちろん人間にとっては、せっかくの日本酒が台無しになるので都合の悪い細菌なのだが、どうもあのアニメでは完全な悪という描かれ方をされていなかった。日常生活をしていると細菌類はどうしても有害だ、というイメージがツイテいるんだけれど、それは人間が生活していく上での話、という前提付きであることを思い起こされる。
この、「自然に善悪がない」という世界観は、ジブリのアニメーションで宮崎駿が描き続けている世界観と同じである。人間が善悪を決めているだけ、と言う筋と、こどもの成長と気付きが織り込まれて、宮崎駿のテーマがほとんど語られる。
そういえば以前紹介したNHK『プロフェッショナル』の宮崎駿の回で、彼が描き続けているテーマについて、「映画なんて見せても、世の中変わらないんだよ」というコメントをしていた。ここに彼の絶望感が透けて見える。しかし一方で『ゲド戦記』をみた宮崎駿は首を横に振りながら「世の中を変える気がなければ、作っても意味がない」とコメントする。
自然と人間の共生を考えろ、という宮崎駿のメッセージがなかなか伝わらないことに絶望している一方で、伝わらないからやり続けるのだ、というパワーの源泉にもなっている、そんな議論になった。だんだん潜在レベルでメッセージを受け取っていて、それを繰り返し伝えること。思想が文脈に乗って、メッセージになって。知らず知らずのうちにメッセージを受け取る訓練をしていることになっているのかもしれない、我々の中で。
どうも、この善悪に限らず、様々なところにある効率と無駄、左脳と右脳、論語と算盤(渋沢栄一の言葉)など、どちらがよい、と言うわけでなく真ん中の混沌とした部分を意識していくことは、自然を理解したり、共生の道を探していったりするときに、結構重要なのではないかと思う。
ソーシャル・キャピタルの話からずれているように見えるけれど、こういったどちらが善悪、と言う判断を超えて、それらがネットワークして共存していく状態は、ソーシャル・キャピタルが豊かな状態と限りなく近いように思うのだ。多様性やそれによる持続性などを端的に表しているのが自然であって、論語と算盤の結論もここに向いている。
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